学校の「一次プロセス」と「二次プロセス」②
前回からの続きです。
前回のブログでは、
①PWでは物事を「一次プロセス」と「二次プロセス」に分けて考える。
②「一次プロセス」と「二次プロセス」は流動的である。
③これらの構造を見立てることが学校(などの組織)に関わって行く上で大切である。
などについて説明をしました。今日は、これを学校について考えてみます。
一般的に言って、学校の先生方や保護者、世間は学校を「通うのが当たり前の場所」と捉えていることが多いと思います。授業に参加するのも「当たり前」だし、先生の言うことを聞くのも「当たり前」です。あるいは、「通うべき」と考えていると言い換えても良いかもしれません。ちょっと大雑把ではありますが、これらは学校の「一次プロセス」と言えるでしょう。もちろん、このような「一次プロセス」は間違っているわけでも悪い訳でもありません。むしろ、学校や社会のシステムを維持するためにとても大切な機能を果たしていると言えます。
一方、生徒の問題行動や不登校などは、学校の「二次プロセス」として捉えることが可能です。それらは学校にとってあきらかに「問題」であるからです。もちろん、二次プロセスであるということは、その学校や関わっておられる先生方にとって、そこから何かメッセージを受け取り、いずれは統合される必要がある存在であるかも知れません。しかし、これらの存在を「良し」とすることは(学校の一次プロセスにとって)とても難しいことなのです。「一次プロセス」はその人や組織のアイデンティティととても強固に結びついているからです。
学校に関わる時には、そういったことを十分に理解し、尊重する必要あります。「一次プロセス」がその人(や組織)にとってのアイデンティティと密接に結びついているということは、「二次プロセス」はある意味で「自分(たち)」という存在(のアイデンティティ)を脅かす脅威として体験されます。
不登校や服装の乱れなど、様々な生徒の問題行動について何らかの配慮を提案した時に、「例外を認めたら、歯止めが利かなくなってしまう」「みんながそうなると、学校がメチャクチャになってしまう」という「恐れ」にも似た反応をされる先生方が少なくないのも、そういったことが背景にあると考えると納得がいくのではないでしょうか。
前回までに、私の発言/態度によって会議が中断してしまったエピソードについて、「場」と「ロール」という視点からお話しました。(「学校への関わり方①」)(「学校への関わり方②」) これを別の視点から説明すると、「スクールカウンセラーが学校の一次プロセスを脅かしたので、カウンセラー自身が(学校の二次プロセスとして)排除されそうになった」と言い換えることことが可能かも知れません。私は民間のカウンセリング機関でキャリアをスタートさせたこともあり、「行き場の無い生徒に居場所を与える」ことは、ある意味で「当たり前」の感覚だったのです。つまり、それが私の「一次プロセス」になっていたのですね。
私や不登校生徒にとっての「一次プロセス」が学校の「二次プロセス」になっていると同時に、それは学校にとっても同じ(内容が反対で構造が同じ)ことなのです。そうなると、「どちらが正しくて、どちらが間違っているか」という問題ではなくなってきます。
「郷に入れば郷に従え」とは言いませんが、相手が個人であっても家族であっても、あるいは組織であっても、その「一次プロセスを尊重する」ことが関係を築く上で非常に大切になってくるのです。このことを無視すると、「一次プロセス」を脅かす「異物」として、相手のシステムから排除されてしまうことなりがちです。
とはいえ、一次プロセスと完全に同一化してしまうと、今度は何のためにいるのか解らなくなってしまします。したがって、スクールカウンセラーは時に学校から「二次プロセス」として捉えられる可能性を十分に自覚しつつ、学校の「一次プロセス」を脅かさないように配慮しながら、慎重にその「システム」と関わって行くことが肝要になって来るのだと思います。
「お互いにとって、同じように相手が二次プロセスであり、お互いに学ぶ必要がある」という立場に立てるかどうかが、スクールカウンセラーという専門家が学校に関わって行く時の大切なポイントになるように思います。